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わたしのおいたち  その(1)
  少しずつ、おいたちを紹介したいと思います。

  私は、1955年、愛媛県宇摩郡土居町でうまれました。




  渋柿城というお城のあった山の裾野の高台、中山間地です。眼下には、遠くに、おだやかな瀬戸内の海がひろがり、点在する島々、その間を行き交う船が眺められる、自然がいっぱい。風光明媚なところです。
 両親は、農家で、段々畑で、ミカンと米を中心に作り、乳牛や、鶏も飼っていました。貧しいながらも、やさしい父、母に大切に育てられました。
 「幸穂」という名前は、幸せが、稲穂のように実るようにと、願いを込めてつけてくれたものです。



 小さい時から、農作業の手伝いは、毎日の日課でした。朝夕、鶏のえさと水をあげるのは、私と弟の仕事でした。田植えや、稲刈り、麦踏、ミカン畑の草取り、山の下草刈り、お風呂の水汲み等々、なんでもしました。、自分の子どもたちには、こんな経験をさせてあげられませんが、今思えば、貴重な体験です。牛の赤ちゃんがうまれるところから、自分の足で立ち上がるまでの様子も父に見せてもらいました。野菜の出荷に朝早く、市場にも連れて行ってもらいました。天候に左右される農家の苦労も、よくわかりました。

 宿題をする私の勉強もよくみてくれた、とても優しかった父。「こどもは、叱って育ててはいけない。」といって、いつもほめてくれました。
 その父は、私が、小学5年生のとき、病気でなくなってしまいました。病に倒れてから、1年足らず、あっという間のことでした。弟は、まだ小学3年生でした。37歳という若さでしたから、ほんとうに無念であっただろうと思います。




 悲嘆にくれる母と家族3人、生きていかねばなりません。その後は、農家の働き手として、より一層がんばりました。農繁期には、朝5時ぐらいから、畑仕事をしてから学校へ行き、休日や、放課後は、いつも手伝っていました。おもに、米とみかん作りです。

 ところが、このみかんが、オレンジの輸入自由化で、壊滅的打撃をうけることなりました。祖父母の代から、両親が、苦労して山の荒れ地を開墾して、みかんを植え、ようやく収穫できるようになったのに、価格が暴落して、かっくりでした。それでも、世話をやめるわけにはいきません。子ども心にも、「いったいどうして」といかりに、思いました。
 農家だけでは、生活できませんから、母は仕事にでるようになり、家事全般も、私の仕事になりました。この当時の、母の苦労は、今思えば、並大抵ではなかったと思います。



 そんな母でしたから、「女性も自立して生きていくには、しっかり勉強して資格を身につけなくては」と私が大学に進むことを勧めてくれました。当時は、国立大学なら学費も安く、奨学金の制度もあったので、大阪大学の医療技術短期大学部を受験しました。受験のための勉強など、全くしていなかったし、塾や、参考書すら買いませんでしたから、受かるとは思ってもみませんでしたが、合格したのです。
 
 大阪で、天理教の教会を営んでいた母の長兄である伯父が、私を、下宿させてくれ、面倒を見てくれるという思いがけない援助があって、奨学金とアルバイトでなんとか大学へ進学できました。
                                                   (つづく)
 

posted by: 山村さちほ | おいたち | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        









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