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おいたち その2
 大学は、豊中の阪大キャンパスのとなりで、入学式に勧誘されたセツルメントというサークルに入部しました。子ども会の活動をしながら社会の問題を考えるというところに、ひかれたのです。




 私は、政治や社会に対して、何故、貧富の差がおおきいのか、まじめに働く人が報われないのかなど疑問はいっぱいあったけれど、それを話し合う人もいなかったし、考える機会もなかったので、もっと知りたいと思っていましたから、これだと思って入部しました。誘ってくれた先輩もやさしく、親しみのある方ばかりだったこともよかった。

 サークルでは、ニックネームで呼び合っていました。わたしは、「ころりん」という名前をつけてもらいました。けっこう気にいっていました。

 そこで、「何のために学ぶのか、生きがいある人生とは?」など、青春時代に誰もが悩む問題を、とことん議論したり、暮らしと政治、社会の問題を真剣に考えることができました。

 私は、看護師の勉強をしていましたから、地域で医療に関する問題を考えたいと、一人暮らし老人の訪問活動をしたいと提案して、セツルメントの医療部を作って、活動はじめました。豊中市の民医連の診療所に、お世話になって、医学生の方たちともいっしょに、訪問しながら、暮らしの実態、生活と福祉、医療、看護の勉強をしました。




 同時に、医学生、歯科学生の方たちと、「医療問題研究会」をつくって、学習会や、フィールドワークで、調査をおこなったり、やりたいと思ったことをどんどん実践して、とても楽しく活動できました。たくさんの仲間がいたからできたと思います。この時の学習や、経験がいまに生きていると思います。

 公衆衛生の原点、「すべての人が人間らしく生きることができる社会の実現」を学んで、わたしは、社会に役立つ仕事をしたい。と強く思っていました。

 こんな中で、出会ったのが、日本共産党です。先輩からすすめられて、宮本顕治「日本革命の展望」という本や、「家族私有財産、および国家の起源」などを読んで、社会の進歩は、人間の活動ですすめてきたこと、戦争も差別もない平等な社会を実現できる展望があることを知り、私も、社会の進歩に役立つ生き方をしたいと思い、入党しました。




 下宿していた天理教の伯父の家では、朝晩のお勤めや、毎月のつきなみ祭のお手伝いや、奈良の天理教本部へのお参りなど、天理教の活動の経験もしました。

 天理教の教えは、陽気暮らしで、仲良く、相和して暮らそうということで、わかりやすく、教祖の中山みき氏は、侵略戦争のときには、弾圧を受けても、節をまげなかったことも共感できました。




 大学を卒業して、大阪大学医学部付属病院に就職。大阪中之島の、堂島川沿いに病院があったころのことです。泌尿器科病棟に3年間勤務しました。
 早速、労働組合に参加して、青年部役員になり、職場の労働条件の改善運動にもとりくみました。

 この当時、3交代勤務でしたが、深夜12時から朝8時は2人で、50床の患者さんをお世話して、準夜4時から12時までは、3人の勤務でした。泌尿器科では、毎日手術があり、腎臓移植の重症患者さんも常時いることから、夜勤の人数を増やしてほしいという要求が切実でした。国立大学ということで、国民のための、医療看護の実践が、組合の方針でした。



 私たちは、患者さんのために、すこしでもいい看護がしたいと、まず、自分たちの看護を見直そうと、看護体制や、業務改善できることはどこか、毎日検討会をもち、討論しました。患者さんのベットサイドに出来るだけ居られるように、工夫を重ね、受け持ち制にして同じ看護師が、担当して信頼関係をつくることにも努力しました。

  また、ドクターとのカンファレンスも、一人ひとりの患者の状態がよくわかるようにして、看護計画を改善するなど、組合として、みんなの意見をききながら、勉強会をつづけ、それでも、増員がどうしても必要だと、当局と交渉。粘りづよくがんばって、ついに、準夜4人、深夜3人を勝ち取ったのです。

 この活動は、本当に楽しかった。仲間と、いい仕事がしたいと真剣にとりくみ、充実した毎日で、患者さんからも喜ばれる。働く喜びで看護師になってよかったと、心から思いました。この経験は、他の大学病院からも注目されて、いろんな大学によばれて、報告させていただきました。私がこんなふうに、やりたいことができたのも、たくさんの党の先輩が働いておられ、素晴らしい組合の仲間がいたからです。

 阪大病院をやめるのは、とても残念でしたが、結婚して、奈良県に移り住むことになりました。

 夫とは、学生時代に出会いました。セツルメントのサークルと、同じ部屋の、部落問題研究会に所属していたのです。お付き合いを始めたのは、私が共産党に入党して、新入党の学習の講師を担当してくれたことからです。父を早くに亡くした境遇に共通点があったことがきっかけでしたが、科学的社会主義の勉強をいっしょにするようになって、考え方に共通するものがあったのだと思います。







 結婚式は、学生時代の友人、職場の仲間たちが、手作りで実行委員会をつくって、100人の参加で盛大に祝ってくれました。

 夫の住む奈良県北葛城郡河合町長楽は、いなかです。ここで暮らすなら、私は、公衆衛生の原点を実現する仕事がしたい。そのためには、地域で役に立つ保健師になりたいと決意して、結婚と同時に、奈良県立保健師学校を受験したのです。幸い合格して、学生と主婦を同時にはじめました。




 保健師学校では、私より若い人たちばかりでしたが、自主研究が、新聞にとりあげられたり、都祁村での実習では、泊まり込みで地域の健診や、懇談会、寝たきり老人全数訪問など、とても、充実した1年間でした。

 卒業後は、近くの民医連の河合診療所に就職。保健師、看護師として働きました。地域密着の医療ですから、患者さんを、病気だけ見るのではなく、一人の人として、仕事や家庭、おかれた環境、生活をまるごとつかんで、病気をなおす、という、民医連医療の実践です。



 訪問看護、往診も積極的におこなって、地域に頼りにされる診療所にと、みんながんばっていました。わたしは、地域医療部をつくって、地域で患者さん宅をお借りしては、医療問題の懇談会を開催、さまざまな要求や、要望をお聞きしました。
 また、当時は、介護保険もなく、寝たきりの病人を抱えた家族の苦労は、計り知れないものでした。何とかしたいと思い、「寝たきり老人を抱える家族の会」をたちあげ、シンポジウムや、町へ、対策を求める要望交渉にもとりくみました。



 そうこうしているうちに、河合町の2人の町会議員の、仲上艶子さんが、町長選挙に立候補することになって、その後継者として、立候補の要請があったのです。これには、おどろきました。私に、勤まるはずがないと辞退しましたが、選挙が迫り、あと数日となって、これはもうしかたない、すべての人が人間らしく生きられる社会の実現、苦しんでいる患者さんのために、政治を変える仕事もやりがいがあるのではと、決意したのです。



 この時、32歳、子どもたちは、まだ6歳と、4歳でした。田舎のことで、嫁に来た私が、こともあろうに共産党から立候補とはと、たいへんなことになりに、夫の母も、親族一同も猛反対でした。しかし、夫の母は、私のやりたいという真意をわかってくれ、いまでは、一番の協力者として私を支えてくれています。子育てでも、ずいぶんお世話になりました。ここまでがんばれたのも、義母のおかげです。




 地元長楽のみなさんも、こころから応援してくださり、70軒の大字ですが、大方の家で、新聞赤旗を購読していただきました。いまでも、たまに私が訪れると、大変喜んでいただき、何時も、議会中継のテレビみてますよと、声をかけてくださいます。ありがたいことです。



 皆さんのおかげで、議会に送っていただき、2期つとめました。この間に、訪問入浴の制度を実現したり、医療介護、福祉の充実を訴え続けました。

 また、認知症で苦しむ方も、増えるなか、家族の会では、昼間、老人を預かってくれる宅老所がほしいとの要望が、つよくなっていました。私は、これは何とか作りたい、と思って、ボランテアの方を募り、
大阪で始めている施設を訪問して勉強も積み重ね、河合診療所の2階をかりて、宅老所を開設しました。今の介護保険のデイサービスのさきがけです。これには、地域の多くの方が協力していただき、大変喜ばれました。いまも、受け継がれています。

 このあと、突然、参議院の奈良選挙区候補に、要請があり、これまた驚きでした。が、ここまできたら、私もずいぶんやりたいことを、させていただいてきたんだし、この経験を生かして、役に立つかどうかわからないけど、公衆衛生の原点、初心にかえって、国政にも挑戦することを決意しました。



 河合町議を辞めるにあたっては、つぎの後継者をきめ、何としても3議席に前進させたいと決意して、第20回党大会を目指す活動で、支部では、毎日赤旗拡大にとりくみました。有権者比での前進を、平群町と競い合っていました。私は、20回大会の代議員に選ばれ、大会で発言をさせていただきました。








 河合町では、支部が団結して、猛奮闘して、馬場隆雄、南口よしえ、中馬ひろこさんの、3人の町議が、実現できたのです。

 この後は、前衛のレポートにまとめています。


 
posted by: 山村さちほ | おいたち | 02:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        









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