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私の生い立ちDVDが、できました。
 今日、朝起きて、ブログを見てびっくり。昨日も記事を投稿して確認したのに、いくつかの記事が消えてなくなっています。ブログを始めてから、毎日続けることを、決意してがんばってきたのに、記事が突然なくなってしまうなんて、いったいどうしてでしょうか。とても、ショックです。どうしてだか、まったくわかりません。

 何とか、気持ちをたてなおして、またブログを書いています。読んでくださいね。
 
 今日は、朝から、奈良市東部山間地域を、田中幸夫元市会議員に案内していただき、訪問しました。まだ、雪が解けずに残っていました。

 長野県から、移住して来られた方々が、苦労されて開拓された地域です。同郷であることから、相談にのり、お世話活動をつづけてこられた田中さんへ、厚い信頼がよせられ、みなさん、本当に暖かく迎えていただきました。
 期待にこたえられるように、田中美智子さんの後を受け継いで、しっかり頑張りたいと思います。

 午後からは、平城地域で、小集会です。たくさんの質問がでました。
  

   この後、高の原駅からショッピングセンターを回って、宣伝行動に出かけました。


  私の生い立ち・活動紹介DVDができました。ご覧ください。リンク欄からもみられます。

    http://www.youtube.com/watch?v=5zbMjVhhTQg
posted by: 山村さちほ | おいたち | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
おいたち3
 1995年、参議院選挙に初めての挑戦。本当に無我夢中、あっという間のたたかいでした。2回目の参議院選挙は、県下各地で日本共産党への大きな期待がひろがり確かな手ごたえを感じてのたたかいでした。

 そのレポートは「前衛」96年12月号に掲載していただきました。このブログにも掲載しておりますので、お読みいただければ嬉しいです。

 結果、比例代表選挙では、県党史上はじめて10万票を超え、私も、148400票の得票でした。これは、奈良県の国政選挙では最高票となりました。




1999年、そうこうしているうちに北野県議団長と交代して急きょ、県議選に立候補することになりました。
立候補表明が、県議選告示まで2ケ月足らずのたたかい。北野さんの全面的なバックアップ、全県の党と後援会の燃えるようなたたかいで、超短期決戦の選挙でしたが、13000票を獲得、3位で当選することができました。

写真は、辻第一衆院議員と北野重一県議団長(いずれも当時)


この県議選では、田中美智子さんも今中せつ子県議と交代して県会初議席を、今井光子さんが2期目の当選を決め、県議会で3議席を獲得しました。私は、新人ながら県議団長として無我夢中のスタートを切ることになりました。

 「解同」関係、土建・建設関係の多い奈良県議会にあって、 「女3人で何ができるか」と攻撃をされましたが、党の国会議員団や市町村の議員さん、党支部のみなさんと、切実な願い実現にがんばりました。「女3人」の初仕事は、全市町村での介護保険の減免制度をつくらせたことです。

右から田中美智子県議、わたし、今井光子県議です。
 

2000年から、党県委員会の副委員長の任務にもつきました。写真は、県委員会事務所前で、県委員会の三役です。右から豆田書記長、澤田県委員長、私、そして田坂副委員長です。




 2004年、10月、新潟中越大地震。死亡68人、負傷者は5000人、全半壊家屋16000戸。痛ましい大災害でした。
 すぐに救援募金に駅頭に立ちました。党県委員会は、集められた救援物資をトラックにのせ何回も新潟へ。私は、県委員会の第2次救援行動で、党員や後援会員のみなさんと長岡市行きました。
奈良からの救援物資は大変喜んでもらえました。
 そのレポートも紹介します。

http://jcp-nara.jp/old/minpo/data/2004topics/20041115.html





 2007年のいっせい地方選では、県知事選で西ふみ子さんが18万を超える得票、そして県議選では生駒市から中野明美さんがカンバック、宮本次郎さんが2度目の挑戦で、生駒郡初の悲願の県会議席を獲得、県議会でもっと若い県議が誕生、現職の3人とあわせて、5人当選をかちとりました。

 これで県議会史上初めて議案提案権をもつ日本共産党県議団に、県知事選とあわせて大躍進のいっせい地方選となりました。
 県議会での議席占有率では、京都、高知、長野についで、全国第4位の県議団となりました。

 右から07年参議院候補の中村あつ子さん、宮本県議、田中県議、私、西ふみ子さん、今井県議、
中野県議、そして県議選郡山市区で奮闘した加藤宣之さんです。県委員会で午前2時頃でしょうか。本当に嬉しい万歳でした。
 
posted by: 山村さちほ | おいたち | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
おいたち その2
 大学は、豊中の阪大キャンパスのとなりで、入学式に勧誘されたセツルメントというサークルに入部しました。子ども会の活動をしながら社会の問題を考えるというところに、ひかれたのです。




 私は、政治や社会に対して、何故、貧富の差がおおきいのか、まじめに働く人が報われないのかなど疑問はいっぱいあったけれど、それを話し合う人もいなかったし、考える機会もなかったので、もっと知りたいと思っていましたから、これだと思って入部しました。誘ってくれた先輩もやさしく、親しみのある方ばかりだったこともよかった。

 サークルでは、ニックネームで呼び合っていました。わたしは、「ころりん」という名前をつけてもらいました。けっこう気にいっていました。

 そこで、「何のために学ぶのか、生きがいある人生とは?」など、青春時代に誰もが悩む問題を、とことん議論したり、暮らしと政治、社会の問題を真剣に考えることができました。

 私は、看護師の勉強をしていましたから、地域で医療に関する問題を考えたいと、一人暮らし老人の訪問活動をしたいと提案して、セツルメントの医療部を作って、活動はじめました。豊中市の民医連の診療所に、お世話になって、医学生の方たちともいっしょに、訪問しながら、暮らしの実態、生活と福祉、医療、看護の勉強をしました。




 同時に、医学生、歯科学生の方たちと、「医療問題研究会」をつくって、学習会や、フィールドワークで、調査をおこなったり、やりたいと思ったことをどんどん実践して、とても楽しく活動できました。たくさんの仲間がいたからできたと思います。この時の学習や、経験がいまに生きていると思います。

 公衆衛生の原点、「すべての人が人間らしく生きることができる社会の実現」を学んで、わたしは、社会に役立つ仕事をしたい。と強く思っていました。

 こんな中で、出会ったのが、日本共産党です。先輩からすすめられて、宮本顕治「日本革命の展望」という本や、「家族私有財産、および国家の起源」などを読んで、社会の進歩は、人間の活動ですすめてきたこと、戦争も差別もない平等な社会を実現できる展望があることを知り、私も、社会の進歩に役立つ生き方をしたいと思い、入党しました。




 下宿していた天理教の伯父の家では、朝晩のお勤めや、毎月のつきなみ祭のお手伝いや、奈良の天理教本部へのお参りなど、天理教の活動の経験もしました。

 天理教の教えは、陽気暮らしで、仲良く、相和して暮らそうということで、わかりやすく、教祖の中山みき氏は、侵略戦争のときには、弾圧を受けても、節をまげなかったことも共感できました。




 大学を卒業して、大阪大学医学部付属病院に就職。大阪中之島の、堂島川沿いに病院があったころのことです。泌尿器科病棟に3年間勤務しました。
 早速、労働組合に参加して、青年部役員になり、職場の労働条件の改善運動にもとりくみました。

 この当時、3交代勤務でしたが、深夜12時から朝8時は2人で、50床の患者さんをお世話して、準夜4時から12時までは、3人の勤務でした。泌尿器科では、毎日手術があり、腎臓移植の重症患者さんも常時いることから、夜勤の人数を増やしてほしいという要求が切実でした。国立大学ということで、国民のための、医療看護の実践が、組合の方針でした。



 私たちは、患者さんのために、すこしでもいい看護がしたいと、まず、自分たちの看護を見直そうと、看護体制や、業務改善できることはどこか、毎日検討会をもち、討論しました。患者さんのベットサイドに出来るだけ居られるように、工夫を重ね、受け持ち制にして同じ看護師が、担当して信頼関係をつくることにも努力しました。

  また、ドクターとのカンファレンスも、一人ひとりの患者の状態がよくわかるようにして、看護計画を改善するなど、組合として、みんなの意見をききながら、勉強会をつづけ、それでも、増員がどうしても必要だと、当局と交渉。粘りづよくがんばって、ついに、準夜4人、深夜3人を勝ち取ったのです。

 この活動は、本当に楽しかった。仲間と、いい仕事がしたいと真剣にとりくみ、充実した毎日で、患者さんからも喜ばれる。働く喜びで看護師になってよかったと、心から思いました。この経験は、他の大学病院からも注目されて、いろんな大学によばれて、報告させていただきました。私がこんなふうに、やりたいことができたのも、たくさんの党の先輩が働いておられ、素晴らしい組合の仲間がいたからです。

 阪大病院をやめるのは、とても残念でしたが、結婚して、奈良県に移り住むことになりました。

 夫とは、学生時代に出会いました。セツルメントのサークルと、同じ部屋の、部落問題研究会に所属していたのです。お付き合いを始めたのは、私が共産党に入党して、新入党の学習の講師を担当してくれたことからです。父を早くに亡くした境遇に共通点があったことがきっかけでしたが、科学的社会主義の勉強をいっしょにするようになって、考え方に共通するものがあったのだと思います。







 結婚式は、学生時代の友人、職場の仲間たちが、手作りで実行委員会をつくって、100人の参加で盛大に祝ってくれました。

 夫の住む奈良県北葛城郡河合町長楽は、いなかです。ここで暮らすなら、私は、公衆衛生の原点を実現する仕事がしたい。そのためには、地域で役に立つ保健師になりたいと決意して、結婚と同時に、奈良県立保健師学校を受験したのです。幸い合格して、学生と主婦を同時にはじめました。




 保健師学校では、私より若い人たちばかりでしたが、自主研究が、新聞にとりあげられたり、都祁村での実習では、泊まり込みで地域の健診や、懇談会、寝たきり老人全数訪問など、とても、充実した1年間でした。

 卒業後は、近くの民医連の河合診療所に就職。保健師、看護師として働きました。地域密着の医療ですから、患者さんを、病気だけ見るのではなく、一人の人として、仕事や家庭、おかれた環境、生活をまるごとつかんで、病気をなおす、という、民医連医療の実践です。



 訪問看護、往診も積極的におこなって、地域に頼りにされる診療所にと、みんながんばっていました。わたしは、地域医療部をつくって、地域で患者さん宅をお借りしては、医療問題の懇談会を開催、さまざまな要求や、要望をお聞きしました。
 また、当時は、介護保険もなく、寝たきりの病人を抱えた家族の苦労は、計り知れないものでした。何とかしたいと思い、「寝たきり老人を抱える家族の会」をたちあげ、シンポジウムや、町へ、対策を求める要望交渉にもとりくみました。



 そうこうしているうちに、河合町の2人の町会議員の、仲上艶子さんが、町長選挙に立候補することになって、その後継者として、立候補の要請があったのです。これには、おどろきました。私に、勤まるはずがないと辞退しましたが、選挙が迫り、あと数日となって、これはもうしかたない、すべての人が人間らしく生きられる社会の実現、苦しんでいる患者さんのために、政治を変える仕事もやりがいがあるのではと、決意したのです。



 この時、32歳、子どもたちは、まだ6歳と、4歳でした。田舎のことで、嫁に来た私が、こともあろうに共産党から立候補とはと、たいへんなことになりに、夫の母も、親族一同も猛反対でした。しかし、夫の母は、私のやりたいという真意をわかってくれ、いまでは、一番の協力者として私を支えてくれています。子育てでも、ずいぶんお世話になりました。ここまでがんばれたのも、義母のおかげです。




 地元長楽のみなさんも、こころから応援してくださり、70軒の大字ですが、大方の家で、新聞赤旗を購読していただきました。いまでも、たまに私が訪れると、大変喜んでいただき、何時も、議会中継のテレビみてますよと、声をかけてくださいます。ありがたいことです。



 皆さんのおかげで、議会に送っていただき、2期つとめました。この間に、訪問入浴の制度を実現したり、医療介護、福祉の充実を訴え続けました。

 また、認知症で苦しむ方も、増えるなか、家族の会では、昼間、老人を預かってくれる宅老所がほしいとの要望が、つよくなっていました。私は、これは何とか作りたい、と思って、ボランテアの方を募り、
大阪で始めている施設を訪問して勉強も積み重ね、河合診療所の2階をかりて、宅老所を開設しました。今の介護保険のデイサービスのさきがけです。これには、地域の多くの方が協力していただき、大変喜ばれました。いまも、受け継がれています。

 このあと、突然、参議院の奈良選挙区候補に、要請があり、これまた驚きでした。が、ここまできたら、私もずいぶんやりたいことを、させていただいてきたんだし、この経験を生かして、役に立つかどうかわからないけど、公衆衛生の原点、初心にかえって、国政にも挑戦することを決意しました。



 河合町議を辞めるにあたっては、つぎの後継者をきめ、何としても3議席に前進させたいと決意して、第20回党大会を目指す活動で、支部では、毎日赤旗拡大にとりくみました。有権者比での前進を、平群町と競い合っていました。私は、20回大会の代議員に選ばれ、大会で発言をさせていただきました。








 河合町では、支部が団結して、猛奮闘して、馬場隆雄、南口よしえ、中馬ひろこさんの、3人の町議が、実現できたのです。

 この後は、前衛のレポートにまとめています。


 
posted by: 山村さちほ | おいたち | 02:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「前衛」1997年12月号・「政権とる党への挑戦」
 「前衛」1997年12月号に、参議院候補として2度目の挑戦のレポート、「政権とる党への挑戦」を、掲載をしていただきました。

 「政治を変えたい」と熱い思いで県下を走りまわった日々、今、この思いをさらに燃やしていっせい地方選に臨みます。

 すでに県議選は、壮絶なたたかいが繰り広げられています。
 絶対に負けられません。みずからの4選と日本共産党県会6議席以上の獲得へ、なんとしてもがんばりたい。ご支援、心からお願いいたします。






レポートは続きを読むをご覧ください


続きを読む >>
posted by: 山村さちほ | おいたち | 08:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
わたしのおいたち  その(1)
  少しずつ、おいたちを紹介したいと思います。

  私は、1955年、愛媛県宇摩郡土居町でうまれました。




  渋柿城というお城のあった山の裾野の高台、中山間地です。眼下には、遠くに、おだやかな瀬戸内の海がひろがり、点在する島々、その間を行き交う船が眺められる、自然がいっぱい。風光明媚なところです。
 両親は、農家で、段々畑で、ミカンと米を中心に作り、乳牛や、鶏も飼っていました。貧しいながらも、やさしい父、母に大切に育てられました。
 「幸穂」という名前は、幸せが、稲穂のように実るようにと、願いを込めてつけてくれたものです。



 小さい時から、農作業の手伝いは、毎日の日課でした。朝夕、鶏のえさと水をあげるのは、私と弟の仕事でした。田植えや、稲刈り、麦踏、ミカン畑の草取り、山の下草刈り、お風呂の水汲み等々、なんでもしました。、自分の子どもたちには、こんな経験をさせてあげられませんが、今思えば、貴重な体験です。牛の赤ちゃんがうまれるところから、自分の足で立ち上がるまでの様子も父に見せてもらいました。野菜の出荷に朝早く、市場にも連れて行ってもらいました。天候に左右される農家の苦労も、よくわかりました。

 宿題をする私の勉強もよくみてくれた、とても優しかった父。「こどもは、叱って育ててはいけない。」といって、いつもほめてくれました。
 その父は、私が、小学5年生のとき、病気でなくなってしまいました。病に倒れてから、1年足らず、あっという間のことでした。弟は、まだ小学3年生でした。37歳という若さでしたから、ほんとうに無念であっただろうと思います。




 悲嘆にくれる母と家族3人、生きていかねばなりません。その後は、農家の働き手として、より一層がんばりました。農繁期には、朝5時ぐらいから、畑仕事をしてから学校へ行き、休日や、放課後は、いつも手伝っていました。おもに、米とみかん作りです。

 ところが、このみかんが、オレンジの輸入自由化で、壊滅的打撃をうけることなりました。祖父母の代から、両親が、苦労して山の荒れ地を開墾して、みかんを植え、ようやく収穫できるようになったのに、価格が暴落して、かっくりでした。それでも、世話をやめるわけにはいきません。子ども心にも、「いったいどうして」といかりに、思いました。
 農家だけでは、生活できませんから、母は仕事にでるようになり、家事全般も、私の仕事になりました。この当時の、母の苦労は、今思えば、並大抵ではなかったと思います。



 そんな母でしたから、「女性も自立して生きていくには、しっかり勉強して資格を身につけなくては」と私が大学に進むことを勧めてくれました。当時は、国立大学なら学費も安く、奨学金の制度もあったので、大阪大学の医療技術短期大学部を受験しました。受験のための勉強など、全くしていなかったし、塾や、参考書すら買いませんでしたから、受かるとは思ってもみませんでしたが、合格したのです。
 
 大阪で、天理教の教会を営んでいた母の長兄である伯父が、私を、下宿させてくれ、面倒を見てくれるという思いがけない援助があって、奨学金とアルバイトでなんとか大学へ進学できました。
                                                   (つづく)
 

posted by: 山村さちほ | おいたち | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
98年さちほ物語
98年参議院選挙のさいのリーフに使った漫画です。


posted by: 山村さちほ | おいたち | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |